2015年 04月 07日
一生の終わりに残るものは・・・・・
と、予防歯科医としてはオチをつけたいところですが、ここはカフェテラス、しかもカテゴリーは「光の言霊」。こんなギャグで落とす訳にはいきません・・・(笑)。
で、今夜の言葉は・・・・
「一生の終わりに残るものは、 我々が集めたものではなく、我々が与えたものである・・・。」
含蓄の深い言葉です。
この言葉は、子供が読んでいた、渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」の中の一文です。この本はベストセラーにもなっているようなので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

すると、面白い事実が出てきました。
もともとの引用先は、クリスチャンとして有名な、作家の三浦綾子さんの「続、氷点」の中に、「ジェラール・シャンドリ」さんの言葉として紹介されているようです。
で、この三浦さんは、フェデリコ・バルバロという神父さんが書いた『三分の黙想』(ドン・ボスコ社)という本から引用されたらしい・・・。
ところが、この「ジェラール・シャンドリ」さん・・・、どうも実在しないようなのです・・・。まあ、このあたりの経緯は書けば長くなるのでリンクを張っておきます。
良ければそちらもご覧下さい。
http://d.hatena.ne.jp/elkoravolo/20120405/1333595054
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000143402
ま、僕に限らず、美しい言葉に当たればそれが誰の言葉か気になる人は多数いるようです(;^ω^)。いずれにせよ、キリスト教の聖職者、とまでは判るのですが、そこから先は読み人知らず・・・・。
さて、ここまできて、ふと気が付きました・・・。
言葉にとって、誰が言ったのか?という事は本当に重要なのか、という事です。
事実、上の言葉は、結局誰が言ったのかわからないままでも、その価値は変わりません。ネットを見ていても多くの人が、この言葉に感銘を受けているのがわかります。
世界の名言集をひもとくと、ほとんどに誰が言ったものか併記されています。
それが歴史上の偉人、聖人、著名人の言葉であればなんとなく納得します。しかし、それで本当にいいのでしょうか?言霊の持つ力に、初めから良くも悪くもフィルターをかけているのではないでしょうか?
心からの言葉、言霊であれば、誰が言ったかに関係なく力を持っているはずです。
渡辺さんはあえて引用を併記せず、心にフィルターをかけることが無いよう配慮されたのかもしれません・・・。
この言葉に至る数行を転記しておきます。
100ページ「歳を重ねてこそ学べる事」という単元の一番最後です・・・。
「成長も成熟も痛みを伴います。自分と戦い、自我に死ぬことを求めるからです。一粒の麦と同じく、地に落ちて死んだ時にのみ、そこから新しい生命が生まれ、自らも、その中に生き続けるのです。『一生の終わりに残るものは、 我々が集めたものではなく、我々が与えたものだ。』財産として残る日々を過ごしたいと思います。」
クリスチャンらしい言葉です。
良い本だと思います。興味のある方は読んでみて下さい。
次回は次の言葉をテーマにしたいと思います。
"You will always find what you seek."
やはり読み人知らず、です(;^ω^)。